“初めての絵本”のきっかけは、ある人の一言だった。
20代前半の失敗を機に、自分が方向音痴であることを自覚し、「目標を持つのはもうやめよう。これからは目的地のない散歩をするようにやって行こう」と決めた私は、その道中で親切な人たちに助けられ、何とかイラストレーターとして生計を立てられるようになっていた。ちょうどその頃のことだった。
お世話になっている児童書の出版社の打ち上げパーティにお邪魔した時のことだ。今は引退されてしまったが、当時の編集長のUさんが、話しかけてくれた。「君はきっとお話がかける人だから、かいてみたらいいよ」
Uさんは、私が駆け出しで何の経験もなかった頃から、何度か仕事を下さった方だ。また、大変おしゃべり上手で、初めてお会いした時に、みょうがの話、江戸の大火事および八百屋お七の話、三途の川の奪衣婆の話…などをして頂き、私はそのぶっ飛んだおしゃべりが大好きだった。また、これは極めて個人的な話ではあるけれど、子どもの頃によく遊んでくれた、父の友人のおじさんにそっくりで(容姿も、おしゃべり上手なところも)、そもそも私は、「この人には、きっとたくさんお世話になるだろう」と予感していたのだ。だから、「かいてみよう!」と思った。
普段の私なら、「打ち上げパーティという場所がら、みんなにそう言っていたのかもしれない…」などと、悶々と考えて時間を無駄にしただろう。でも、その時は不思議と考えなかった。「Uさんが言ってくれたのだから、きっとかけるのだ!」と張り切っていた。そして本当にかいてみて、図々しく連絡した。Uさんは、お酒の席でのことだったし、言ったことすら覚えていなかったかもしれないから、電話の向こうで、実はびっくりしていたかもしれない。
私は、初めてかいた絵本(らしきもの)を、いきなり編集長に見て頂くことになった。
張り切ってかいてみたところで、初めからうまくいくはずはない。絵本なんてかいたことはないし、そもそも子どもの頃からあまり読んだことがない。初めてかいたその一作は、信頼している編集長が勧めてくれた、という嬉しさと、絵も文もかくのが好きだ、というその気持ちだけでかき上げたものだった。
初めて出版された絵本は『わたしドーナツこ』だけど、初めて書いた絵本(らしきもの)は、『きみと かんでんちと さみしい』という、不可解極まりないもので、その不可解さといったら、かいた本人ですら要約困難なほどである。以下、出来る範囲で要約してみる。
“小さな島の砂浜に打ち上げられた潜水艦に、ネネとココという2匹の猫が、2匹きりで住んでいる。島には2匹の他に、誰もいない。ネネは小さな白猫で、ココは大きな黒猫だ。2匹はそもそも猫ゆえに忘れっぽく、その上2匹きりで生活しているため、ものの名前や気持ちの名前、はたまた自分たちがなぜこの島にいるかなど、ありとあらゆることを忘れていきがちである。例えば《やかん》を《やんか》などといったちょっとした言い間違えは日常茶飯事、《いたい!》を《いちじく!》といったひどい言い間違えも、珍しくない。
ある晩2匹は、赤い実を前に、その実の名前が《いちご》なのか《トマト》なのかで口論となり、日頃からココにお兄さんぶられるのが少しばかり悔しかったネネは、思わず「僕がココと一緒にいるのは、この島にココしかいないから、仕方なく一緒にいるだけなんだからね」といった趣旨の悪態をつき、しょげてしまったココを見て、少しばかりせいせいしていた。
ところが翌朝、ネネが目を覚ますとココの姿はなく、ネネは焦ってココを探しに出かける。そしてその道中、ネネは次第に過去の出来事を思い出していくのであった。
最終的に、森の中で《さみしい》(実際はアケビ的な木の実)を食べていたココを見つけたネネは、2匹がこの島にいる本当の理由を思い出す。そして物語は、2匹が「かんでんちだなぁ」と言うところで終わる。2匹が《かんでんち》を何と言い間違えているのかはわからないけれど、2匹は幸せそうなのであった…”
文章が長い上に漢字を使っている、など、突っ込みどころは満載だけれども、1番の突っ込みどころは、いなくなったココを探す現在のネネと、次々に思い出される過去の出来事とが交互に現れる構成だ。当時は、ちょっと複雑な方が面白いんじゃないか?と思っていた。馬鹿だった。
読み終えたUさんは、こう言った。
「これは、絵本ではなくて、絵本の形をとった作品集、いわゆる大人の絵本だね。こういうのは、うちでは出せない」
今思えば当然のことだけど、その時は、ガーン、と思った。漫画みたいだけど、その時の気持ちは、ガーン、としか表しようがない。
「これを絵本にするとしたら、例えばこの2匹が、どんな生活をしているのかとか、そういうことの方が僕は知りたい。無人島にある潜水艦の家、というのは、なかなかいいよ。」
と、ちゃんとフォローして下さった。
「それから、時間を行ったり来たりするのは、基本的にはやめた方がいい。」
そうなのか!と思った。本当に何もわかっていなかった。今これを書いていて、7年越しに恥ずかしい。
「大人の絵本をかきたいの?」
と聞かれた。
「わかりません」
と正直に答えた。
「コトリさんはね、大人の絵本じゃなくて、大人が読んでも面白いと思えるような、子供の本をかくといいよ。そういうのが、きっとかけると思うよ。」
その言葉は、今も私の御守りになっている。迷ったら、一旦そこに戻る。方向音痴な私の散歩道にある、大切な道標だ。
帰り道、喫茶店に寄って、すぐに新しいお話をかき始めた。Uさんの言葉を忘れないうちに、一刻も早くかきたかった。お腹に穴があいてしまった女の子の話。タイトルは、『わたしドーナツ』にした。
その日から、暇さえあれば絵本の案を練った。仕事の合間、喫茶店、寝る前の布団の中。何度も練り直した。
今、私はほとんど鉛筆を使わないのだけど、その癖はこの頃からだ。消しゴムのカスが出ると、喫茶店のテーブルを汚してしまうし、布団も汚す。だから、何でもペンでかくようになった。
そうして出来上がったものを、再びUさんに見て頂いた。
読み終えたUさんは、「うん!これは面白い!!」と言った。
本当に、面白いと思っている人の顔と声だった。嬉しかった。
『わたしドーナツ』は、編集会議にかけてもらえることになった。そこで承認を得られれば、出版してもらえるらしい。企画が通るかはわからなかったけれど、とにかく私は嬉しかった。自分が面白いと思って作ったものを、誰かが面白いと言ってくれる。こんなに嬉しいことがあるだろうか?と思った。
編集部のある建物を出ると、光が明るくて、風が気持ちよかった。私はあまりに嬉しくて、瞳孔が開いていたのだろう。光がきらきらと粒になって見えた。
そうか、私は今まで、本当の意味での光も風も知らなかったのか、と思った。
気付いてはいなかったけれど、自分と世界の間には壁があって、今初めてその壁に穴があいたのだ、と思った。そこから光が差し込んできた。そこから風が吹いてきた。やっと世界とつながったのだ。大袈裟かもしれないけれど、そう思った。
そのまま帰るのが勿体無くて、帰りに植物園に寄った。
芝生の中に、ひとつだけ小さくて地味なキノコが生えていた。
1羽の鳩が、何をするでもなく、ぼーっと立っていた。
私はその時、赤いスカートをはいていた。
何でもない風景なのに、なぜかはっきり覚えている。きっとその時の強い光が、記憶に焼き付けたのだろう。
数日後、編集長から連絡があった。
こうして『わたしドーナツ』は、『わたしドーナツこ』となって、出版されることになった。
どうやら私は、あてのない散歩の途中で、面白い景色を見つけたようだった。
「わたし ほんとうに ドーナツになっちゃった!!」
本当はドーナツが大好き。でも「どう なつこ」という名前をからかわれるのがこわくて、ゆううつな日々を送る女の子が学校で出会ったのは…。
井上コトリさんのデビュー作『わたしドーナツこ』は、ドーナツが主役?の一風変わったお話です。
KAMAKULANIのキュレーターが運営する大阪谷町六丁目の雑貨店「carbon」では、井上コトリさんのサイン入り『わたしドーナツこ』を限定販売中!
「絵本を読んだら絵を描きたい!」12色のミニ色鉛筆がついたのcarbonオリジナルギフトセットです。夏休みを迎えるお子様へのプレゼントにぴったり!
じぶんのなまえ、すき?きらい?おかしななまえからはじまるおかしなおはなし。編集長Uさんとの出会いから生まれた記念すべき絵本デビュー作。
1
6月20日公開
「目標を持つのはもうやめよう」。目的地のない散歩に出ることをぼんやりと決意した井上コトリさん。方向音痴だからこそできるそんな気まぐれな散歩が、とても素敵な場所にコトリさんを導いてくれました。
2
7月19日公開
出版社の編集長からのアドバイスをきっかけに絵本をかいてみることにした井上コトリさん。記念すべき初めての絵本『わたしドーナツこ』が生まれるまでには、絵本作家になるための大切なことに気づかせてくれた「その前の」絵本の存在がありました。2冊の絵本の誕生秘話。
3
8月23日公開
『わたしドーナツ』から『わたしドーナツこ』へと名前を変えた初めての絵本。タイトルから装丁まで、出版社やデザイナーの方々と一緒に試行錯誤を繰り返しながらだんだん「なつこらしい」本に仕上がっていきました。それは井上コトリさんにとって魔法のような体験となりました。
4
9月20日公開
いよいよ出版された『わたしドーナツこ』。コトリさんの手元を離れて、読者や周りの人たちから好意的な反響が寄せられました。コトリさん自身も、自らの人生と『わたしドーナツこ』を照らし合わせて、あらためてこの絵本の意味を考えます。
5
10月18日公開
絵本作家としてのデビューを果たした井上コトリさん。そこですべての運の貯金を使い果たしたかのように思えたけど、すぐに新しいふたつの出会いがやってきました。料理雑誌の挿絵の仕事と、絵本2作目の話。ふたつの卵が育まれていたのです。
6
11月15日公開
料理雑誌のイラストと新しい絵本。ふたつの卵を抱えた井上コトリさん。2作目の絵本の企画がなかなか通らず、ついに再び「どん底」に。そこで聞こえてきたのは、いつかの自分の言葉とお世話になったU編集長の言葉。その声を頼りに『ちいさなぬま』が完成しました。